幻の二冠馬カイソウ
東京優駿が創設されたのが1932(昭和7)年、そしてイギリスに倣い、皐月賞,菊花賞を含めたクラシックレースが整備されたのが1939(昭和14)年。
以後、7頭の馬が三冠馬になっています。
・セントライト (1941年)
・クリフジ (1943年)※ダービー,菊花賞,オークス
・シンザン (1964年)
・ミスターシービー (1983年)
・シンボリルドルフ (1984年)
・ナリタブライアン (1994年)
・ディープインパクト(2005年)
ここで、セントライトやクリフジの時代にスポットを当ててみましょう。1940年代ですので、太平洋戦争の真っ只中。
そんな中でも競馬が行われていたのは、軍事目的で強くて速い馬を育てようという大日本帝国の方針があったからだと言われています。
そんな時代に最初の三冠馬セントライトが誕生したわけですが、ダービーこそ16頭立てだったものの、
皐月賞(当時は横浜農林省賞典四歳呼馬)は8頭立て、菊花賞(当時は京都農林省賞典四歳呼馬)は6頭立てと馬資源の少ない時代でしたから、少々割り引かなければいけません。
しかし、ダービーの8馬身差圧勝は圧巻だったそうで、種牡馬としても天皇賞馬オーライト,オーエンス,菊花賞馬セントオーを輩出しています。それよりもすごかったのが牝馬のクリフジ。
春のダービーは牡馬を相手に6馬身差の圧勝。昨年、ウオッカが64年ぶりにダービーを制しましたが、その64年前に勝ったのがクリフジでした。
そして、当時は秋に行われていたオークス(阪神優駿牝馬)を10馬身差、菊花賞を大差で勝ち、変則三冠達成。生涯成績は11戦11勝で、このうち7戦が10馬身以上の圧勝だったそうです。
産駒としては、桜花賞とオークスを制したヤマイチがいます。
そんな中、戦時中であったために不遇な運命を辿ってしまった馬がいます。1944年のダービー馬カイソウです。
1943年12月に競馬中止の閣議決定がされ、東京と京都でのみ能力検定競走としてクラシックレースや種牡馬選定競走が実施されました。
京都で8戦5勝の成績を残し、東京2400mの前哨戦を制したカイソウは、皐月賞馬のクリヤマトとともにダービーの有力候補。軍関係者200名のみが見守る中、物静かな雰囲気で18頭立ての「能力検定競走」が開催されました。
結果は、2着のシゲハヤに5馬身の差をつける完勝。晴れてダービー馬となったのでした。そして、暮れの京都2000mの前哨戦を制して迎えた菊花賞。
戦況が悪化し、6頭立てと寂しい雰囲気で行われた菊花賞でしたが、ここでもカイソウは他馬を寄せつけず、1着入線を果たしました。
しかし、ここで問題が。全馬コースを間違えて失格となってしまったのです。前年までは外回り2周で行われていた菊花賞が、この年はスタート位置の変更で2週目は内回りを通ることになっていたのです。
全馬失格となってしまった菊花賞は、レース自体が不成立となり、1944年の菊花賞は回数にもカウントされていません。幻の二冠馬となってしまったカイソウは、その後の一級種牡馬選定競走でまさかの15頭立ての12着。
また、母系にサラブレッドではない豊平の血が入っており、「サラ系」の烙印を押されることに。結局、幻の二冠馬は種牡馬になることはなく、その後軍馬として名古屋師団に連れて行かれ、1945年5月14日の名古屋大空襲の際に行方不明となってしまったようです。
人ですら生き延びるのが大変な時代ですので致し方ないと言えばそれまでですが、カイソウほど不遇な扱いを受けたダービー馬は後にも先にもいないのではないでしょうか。