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競馬のトリビア 元祖怪物タケシバオー
 昔の馬のことを書いていたら、無性にタケシバオーのことが書きたくなりました。
 「37年ぶり日本レコード更新!」
 このニュースが飛び込んできたのは2006年8月27日。小倉で行われたオープン特別、阿蘇Sでサンライズキングがダート1700mのレコードを0.1秒更新したのでした。 それでは、37年前のレコードとは? そう、1969年3月1日に東京で行われたオープンでタケシバオーが記録した1分41秒9。古い日本レコードは他にもありますが、これらは競馬場が改修されて現在では設定のないコースです。 しかし、ダート1700mは現在でも中山,新潟,福島,中京,小倉,札幌,函館とローカルを中心に多くの競馬場で設定されていますし、エルムS(Jpn3)という重賞もあります。 それでも37年間破られなかった記録、それがタケシバオーの記録でした。
 生涯成績は27戦16勝(国内)。こう書いてしまうと「普通の一流馬」になってしまいますが、2着が10回、3着が1回、4着以下はありません。また、その内容が凄いんです。 タケシバオーの父はチャイナロック。1973年のリーディングサイヤーで、現在ではマイナー血統となってしまったハイペリオン系です。3歳時は8戦5勝で、暮れには朝日杯3歳Sで7馬身差の圧勝。 4歳になり、2月に行われた東京4歳S(東京ダ1700m)をレコードで優勝し、1968年のクラシック戦線はアサカオー,マーチスとともに「三強」と呼ばれるようになりました。しかし、
 弥生賞   :2着(勝ち馬:アサカオー)
 スプリングS:2着(勝ち馬:マーチス)
 皐月賞   :2着(勝ち馬:マーチス)
 ダービー  :2着(勝ち馬:タニノハローモア)
と、クラシック競走を勝つことができませんでした。特に、ダービーではアサカオー(3着)とマーチス(4着)に先着したものの、伏兵タニノハローモアに逃げ切られてしまいました。 4歳秋は菊花賞に出走せず、アメリカへ遠征。ワシントンD.C.インターナショナルに出走し、最下位(8着)に敗れています。
 帰国後、暮れのオープンで2着、5歳になって正月明けの七草Sでも2着となった後、タケシバオーの快進撃が始まります。ごちゃごちゃ書くよりも、戦績を書いた方がわかりやすいと思いますので、以下に記します。
 1969/2/ 2 東京新聞杯  (東京ダ2100m)10頭立て1着 2:09.5R 古山58
 1969/3/ 1 オープン   (東京ダ1700m) 6頭立て1着 1:41.9R 古山60
 1969/3/16 京都記念   (東京芝2400m)11頭立て1着 2:34.6  古山62
 1969/4/13 オープン   (阪神芝1600m)13頭立て1着 1:35.2R 古山60
 1969/4/29 天皇賞・春  (京都芝3200m) 7頭立て1着 3:29.1  古山58
 1969/7/ 6 ジュライS  (中山芝1800m) 9頭立て1着 1:54.6  古山65
 1969/9/14 毎日王冠   (東京ダ2100m) 7頭立て1着 2:10.9  古山62
 1969/9/28 英国フェア記念(中山芝1200m) 6頭立て1着 1:10.4R 吉永62
 芝,ダート問わず、距離も1200m〜3200mとバラバラ、最高65kgまで斤量を背負わされても無敵の8連勝。その中にはダート1700mを含め、4回のレコード勝ちが含まれています。 天皇賞・春ではアサカオー(2着),マーチス(5着)にリベンジを果たし、同じ脚で1200mの英国フェア記念(第3回のみスプリンターズSの名称変更して施行)もレコード勝ちしてしまうのでした。
 英国フェア記念の後は再びアメリカへ遠征し、ワシントンD.C.インターナショナルに出走するも、最下位(7着)に敗れ、引退。 種牡馬としては、南関東の三冠馬ハツシバオーや、6年連続重賞制覇の記録を持つドウカンヤシマなどの重賞馬を輩出していますが、中央のG1級レースを制した産駒はいませんでした。
 記録(レコード)にも記憶にも残る馬。タケシバオーはそんな馬でした。