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競馬のトリビア 皇帝シンボリルドルフ
 シンザンの三冠達成から17年後の1981年にシンボリルドルフは生まれました。父パーソロン,母スイートルナ。 母父が天皇賞(春),宝塚記念,有馬記念を勝った名馬スピードシンボリ。 シンボリ牧場で育成されている頃から期待されており、野平祐二厩舎に入厩しました。
 1983年7月に新潟でデビュー。1000mのレースでしたが、鞍上の岡部幸雄騎手は「1600mを覚えさせる競馬をした」と語っています。 10月のいちょう特別(芝1600m)では「2400mの競馬」で優勝。 その後は、朝日杯3歳Sではなく、オープン特別に出走しましたが、これはシンボリルドルフを世界のホースマンに見せるため、ジャパンカップ当日のレースが選ばれたのでした。 野平調教師,馬主の和田共弘氏,岡部騎手の三氏はいずれも海外通で、この頃から海外を意識していたとのことです。
 旧4歳になって、初戦に弥生賞が選ばれました。ここではライバル・ビゼンニシキとの初顔合わせ。 直線の叩き合いを制し、無敗で皐月賞へ向かうことになりました。 皐月賞では再びビゼンニシキとの再戦となりましたが、ここも軍配はシンボリルドルフ。 口取式で岡部騎手は一本指を高らかに上げたのでした。既に三冠を意識してのパフォーマンスでしょう。
 日本ダービーでは、向こう正面で岡部騎手の指示に無反応で、場内が騒然とするものの、直線では自らハミを取り、無敗で二冠達成。 岡部騎手は追い出しを我慢することをここで覚えたと語っています。秋になり、初戦のセントライト記念をレコードで快勝。 菊花賞では3コーナーで前が壁になる場面もありましたが、直線で中団から抜け出し、史上初無敗での三冠達成。岡部騎手の三本の指が上がったのでした。 レース後、シンザンを育てた武田文吾調教師が野平師のもとに駆け寄り「シンザンを超える馬がついに現れた」と叫んだのは有名な話です。
 世界を意識する陣営は、中一週でジャパンCに参戦。ミスターシービーとの三冠馬対決も話題になりました。 しかし、レース前に下痢を起こすなど体調が万全でなく、結果は3着でした。 勝ったのは逃げ切ったカツラギエースで、ジャパンCの日本調教馬初勝利をさらわれることとなります。 次走の有馬記念では体調が戻り、カツラギエースを徹底的にマーク。最後の直線で交わし、リベンジを果たしたのでした。 このとき、野平師は「三冠馬やジャパンC馬に失礼がないように」と岡部騎手に指示し、それがカツラギエースに2馬身,ミスターシービーにはさらに1馬身半の差になったと言われています。
 旧5歳の春は日経賞から始動。押し出される形で逃げましたが、危なげなく快勝しました。 続く天皇賞(春)では、ミスターシービーがこれまでとは打って変わって先攻策に出ましたが、動じることなく直線で交わし、天皇賞馬の仲間入りをしました。 結局、ミスターシービーはシンボリルドルフに一度も勝てませんでした。 その後宝塚記念をステップに海外遠征する計画を立てました。しかし、宝塚記念の前日の調整で脚を痛め、同レースを回避。 同時に海外遠征も延期されることになりました。
 秋はぶっつけで天皇賞(秋)に臨むことになったシンボリルドルフ。しかし、そこでは「世紀の大波乱」が待っていました。 何と、13番人気の伏兵ギャロップダイナに差されて負けたのです。 レース後、シンボリルドルフは悔し涙を流していたという逸話があるくらいです。 メジロマックイーンの18着降着も衝撃的でしたが、秋の府中には魔物が住んでいるようです。
 しかし、ジャパンCではリベンジを果たし、1番人気での堂々の勝利。世界を夢見る陣営にとっては悲願の勝利だったことでしょう。 続く有馬記念では、野平師は前年とは異なり「強い勝ち方をするように」指示。 その年の二冠馬でシンザンの仔ミホシンザンを4馬身差で蹴散らし、仮想三冠馬対決を制して国内には敵なしを印象づけました。
 その翌年は当然のように海外遠征の計画が持ち上がりましたが、ここで野平師と和田氏で対立が起こってしまいました。 二人とも目指すべき最終ゴールはフランスの凱旋門賞で一致していたのですが、ヨーロッパのランクの低いG1から挑戦させたい野平師に対して、 ヨーロッパより芝のレベルが低いアメリカで経験を積むべきだと和田氏が主張し、真っ向から対立してしまったのです。 結局、和田氏がアメリカの現地のスタッフで調整することになり、シンボリルドルフはアメリカに渡ることになったのですが、このアメリカのコースが鬼門でした。 ご存じの通り、ダートが主流なアメリカでは、芝コースはダートコースの内側にあり、コースによってはダートを横切る形になっています。 出走したサンタアニタ競馬場のサンルイレイSでは、スタート直後がダートになっており、シンボリルドルフはここで故障発生。 レースは完走したものの、6着に敗れました。結局、これが最後のレースとなってしまい、凱旋門賞挑戦は幻となってしまったのでした。
 故郷のシンボリ牧場に戻ったシンボリルドルフは、10億円のシンジケートが組まれて種牡馬生活を送りました。 代表産駒は何と言ってもトウカイテイオーでしょう。父子二代続けて皐月賞,ダービーの二冠を無敗で達成しました。 トウカイテイオー自身、三度の骨折を乗り越え、364日ぶりのレースとなる有馬記念を制するなど、記録と記憶に残る名馬でした。 ノーザンテーストやサンデーサイレンスにより日本の血統勢力は塗り替えられてしまい、パーソロンの系譜は傍流になってしまいましたが、父子孫三代にわたるダービー制覇も見てみたい気がします。
シンボリルドルフ全成績
 1983/ 7/23 3歳新馬         新潟芝1000m 10頭立て1着 0.59.2  岡部53
 1983/10/29 いちょう特別(OP)  東京芝1600m 17頭立て1着 1.37.3  岡部53
 1983/11/27 オープン        東京芝1600m  5頭立て1着 1.39.9  岡部55
 1984/ 3/ 4 弥生賞(G2)     中山芝2000m 14頭立て1着 2.01.7  岡部55
 1984/ 4/15 皐月賞(G1)     中山芝2000m 18頭立て1着 2.01.1  岡部57
 1984/ 5/27 日本ダービー(G1)  東京芝2400m 21頭立て1着 2.29.3  岡部57
 1984/ 9/30 セントライト記念(G2)中山芝2200m 10頭立て1着 2.13.4R 岡部56
 1984/11/11 菊花賞(G1)     京都芝3000m 18頭立て1着 3.06.8  岡部57
 1984/11/25 ジャパンC(G1)   東京芝2400m 14頭立て3着 2.26.5  岡部55
 1984/12/23 有馬記念(G1)    中山芝2500m 11頭立て1着 2.32.8R 岡部55
 1985/ 3/31 日経賞(G2)     中山芝2500m  8頭立て1着 2.36.2  岡部58
 1985/ 4/29 天皇賞・春(G1)   京都芝3200m 15頭立て1着 3.20.4  岡部58
 1985/10/27 天皇賞・秋(G1)   東京芝2000m 17頭立て2着 1.58.8  岡部58
 1985/11/24 ジャパンC(G1)   東京芝2400m 15頭立て1着 2.28.8  岡部57
 1985/12/22 有馬記念(G1)    中山芝2500m 10頭立て1着 2.33.1  岡部57
 1986/ 3/29 サンルイレイS(米G1)サン芝12F    7頭立て6着 2.26.8  岡部57.2