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競馬のトリビア ライバル物語(1)
 競馬の世界でTTGと言えば、トウショウボーイ,テンポイント,グリーングラスの3頭です。 1976から1977年にかけてG1級レースを勝った名馬ですが、これらの名馬は何度も同じレースで争いました。 それによって名勝負が生まれ、記録だけではなく記憶にも残るレースが生まれます。 ライバルがいるとファンの思い入れも強くなります。そして、後世に語り継がれます。 そういう意味では、ライバルが持てなかった馬もいました。シンザンやディープインパクトなどがその類でしょう。彼らは強すぎました。 シンボリルドルフは、1年先輩に同じ三冠馬のミスターシービーがいたことでレース前の盛り上がりはありましたが、レースが終わってみるとやっぱりライバルがいませんでした。 前哨戦での敗戦やギャロップダイナ,ハーツクライの激走などがありましたが、これは単なる「波乱」に過ぎません。
 しかし、TTGの3頭が出てくると、どの馬が勝ってもおかしくなく、勝ち負けが繰り返されることによってファンは一喜一憂したのでした。 TTGそれぞれのファンがいたことでしょう。「一番強かったのは?」という話題で盛り上がれるファンは幸せでした。 この3頭が産まれたのは1973年。1976年のクラシックで一緒に戦うことになります。 初戦の皐月賞では、3連勝のトウショウボーイに対して、5連勝で「西の秘密兵器」と呼ばれたテンポイントが初めて顔を合わせました。 なお、グリーングラスは新馬戦でトウショウボーイに敗れ、ようやく未勝利戦を勝ったばかりの条件馬で、皐月賞には出走できませんでした。 厩務員ストライキの影響でテンポイントが万全でなく、結果はトウショウボーイの5馬身差圧勝でした。 続く日本ダービーに出走するためにNHK杯に駒を進めたグリーングラスでしたが、12着と大敗し、出走の夢が絶たれました。 再び、トウショウボーイとテンポイントの一騎打ちとなりました。 しかし、テンポイントはレース中に骨折し7着。トウショウボーイはクライムカイザーの執拗なマークに遭い、2着に敗れてしまいました。 秋の菊花賞でようやくTTGそろい踏み。 最後の直線でトウショウボーイを交わしたテンポイントが悲願のクラシック制覇と思われた矢先に、当時条件馬を勝ったばかりだったグリーングラスがインコースを差して優勝。 年末の有馬記念ではトウショウボーイとテンポイントが4度目の対戦となりましたが、テンポイントが直線で不利を受けてトウショウボーイのレコード勝ち。 結局、この年テンポイントは無冠に終わりました。 年が明けて、天皇賞(春)ではトウショウボーイが休養中で、グリーングラスの調子も良くなく、ようやくテンポイントがG1級レースのタイトルを獲りました。 宝塚記念では再びTTGが揃い踏み。逃げたトウショウボーイがそのまま押し切り、2番手のテンポイントがそのまま2着。最後に差してきたグリーングラスが3着というレースでした。 秋になって、当時の天皇賞は勝ち抜け制度があったため、テンポイントが出走不可。 当時3200mだった天皇賞(秋)はトウショウボーイとグリーングラスの対決になりましたが、お互い意識しすぎてロングスパートになってしまい、共に惨敗という結果になりました。 そして、最後のTTG対決は有馬記念。最後の直線でトウショウボーイとテンポイントの壮絶なデットヒートが繰り広げられ、テンポイントがハナ差差したところがゴールでした。 グリーングラスはまたしても3着。このレースを最後にトウショウボーイは引退しました。 逆に現役を続行し、海外遠征を予定していたテンポイントに悲運が襲ったのは次の日経新春杯。66.5kgのハンデで出走しましたが、レース中に左第三中足骨骨折および第一指骨骨折を発症。 重度の骨折ということで、通常であれば安楽死処分となるところでしたが、ファンの願いもあり陣営は手術を決断。 手術自体は成功したかに思われましたが、その後蹄葉炎を発症し、この世を去りました。 グリーングラスは、その後も頑張りました。旧6歳になって天皇賞(春)を、旧7歳で有馬記念を制し、TTGの中では唯一有終の美を飾ったのでした。
年月日 レース名 トウショウボーイ テンポイント グリーングラス
1976.04.25 皐月賞 1着 2着 未出走
1976.05.30 日本ダービー 2着 7着 未出走
1976.11.14 菊花賞 3着 2着 1着
1976.12.19 有馬記念 1着 2着 未出走
1977.04.25 天皇賞・春 未出走 1着 4着
1977.06.05 宝塚記念 1着 2着 3着
1977.11.27 天皇賞・秋 6着 出走不可 5着
1977.12.18 有馬記念 2着 1着 3着
 元祖アイドルホース、ハイセイコー。大井競馬場でデビューし、破竹の6連勝。 2着以下に7馬身以上の差をつけて圧勝する彼が中央競馬へ移籍することになり、地方からの野武士が中央のエリートに挑戦する姿は、多くのファンを魅了しました。 と言っても、ハイセイコーの血統は1973年にリーディングサイヤーとなったチャイナロックを父に持ち、一流のエリートと呼べるものでした。 地方からデビューしたのは、ただ馬主が地方の資格しか持っていなかったため。弥生賞,スプリングS,皐月賞,NHK杯と連勝し、日本ダービーの単勝支持率は66.7%。 これは、これは2004年にディープインパクトに破られるまでダービーレコード。 全国から「東京都ハイセイコー様」と書かれたファンレターが届き、第一次競馬ブームを巻き起こしたのでした。 そんなハイセイコーですが、ライバルがいたことでさらに記憶に残る名馬となりました。そのライバルの名はタケホープ。 弥生賞でハイセイコーに負けること7着で、皐月賞出走は叶いませんでしたが、4歳中距離特別でダービーの切符を手にし、ハイセイコーと再戦することになりました。 主戦の嶋田騎手は「ハイセイコーも4つ脚なら、俺の馬も4つ脚だ」と自信を持った騎乗。直線でハイセイコーを交わし、大一番で土をつけたのでした。 その後、京都新聞杯からオープンまで6回対戦し、3勝3敗の五分の成績。 しかし、ハイセイコーが京都新聞杯,中山記念,オープンと2000m以下の小さいレースで先着したのに対し、タケホープは菊花賞,天皇賞・春と言った長距離の八大競走を優勝。 実績ではタケホープの方が一枚上手でした。 そして、ハイセイコーが引退表明した1974年有馬記念。タケホープとは通算成績4勝4敗で、最後のライバル対決をファンは固唾を飲んで見守っていました。 しかし、黙っていなかったのが1年先輩のタニノチカラ。 ランドプリンス,ロングエース,イシノヒカル,タイテエムなど蒼々たるメンバーが同期にいましたが、旧3歳時に重度の骨折に見舞われ、クラシックに参戦できませんでした。 旧5歳になってタニノチカラがターフに戻ってきたときには、逆に同期の馬は故障などで次々に引退。その代わりにライバルとなったのがハイセイコーでした。 天皇賞・秋を制したタニノチカラでしたが、その次の有馬記念ではハイセイコーを意識しすぎてストロングエイトの逃げ切り勝ちを許してしまい4着。 京都大賞典でハイセイコーに勝ち、1勝1敗となった次の対決が1974年有馬記念でした。 大レースでタケホープを見返したいハイセイコー。そして、そのハイセイコーにリベンジを果たしたいタニノチカラ。 そんな思惑の中、有馬記念は行われました。最後の直線ではハイセイコーとタケホープの壮絶な叩き合い。 しかし、それは2着争いであり、逃げたタニノチカラがその5馬身前でゴール板を駆け抜けたのでした。
年月日 レース名 ハイセイコー タケホープ タニノチカラ
1973.05.27 弥生賞 1着 7着 ---
1973.05.27 日本ダービー 3着 1着 ---
1973.10.21 京都新聞杯 2着 8着 ---
1973.11.11 菊花賞 2着 1着 ---
1973.12.16 有馬記念 3着 未出走 4着
1974.01.20 アメリカJCC 9着 1着 未出走
1974.03.10 中山記念 1着 3着 未出走
1974.05.05 天皇賞・春 6着 1着 未出走
1974.10.13 京都大賞典 4着 未出走 1着
1974.11.09 オープン 2着 5着 未出走
1974.12.15 有馬記念 2着 3着 1着
 第二代アイドルホース、オグリキャップ。ハイセイコーの時代から15年の月日が流れていました。 笠松競馬場で12戦10勝の戦績を残した芦毛馬は、満を持して中央競馬に移籍したのでした。こちらは野武士という言葉がピッタリのマイナー血統。 ちなみに笠松時代のライバルはマーチトウショウ。笠松での2敗は、この馬に敗れたものでした。 ところで、この頃はクラシック競走に出るためにはクラシック登録というものをする必要がありましたが、オグリキャップは登録していませんでした。 結局、ペガサスS,毎日王冠,ニュージーランドT4歳Sと裏街道を走り、秋になると毎日王冠,天皇賞(秋),ジャパンCと古馬路線を歩むことになりました。 天皇賞(秋)で2着と中央競馬初黒星となった翌週に菊花賞を制したのが天才・武豊騎手を背に乗せたスーパークリーク。 有馬記念でこの2頭が争うことになりました。結果はオグリキャップのG1初制覇で、スーパークリークは3位入線も、直線で斜行して進路妨害を犯したため失格となりました。 次の年は、オグリキャップもスーパークリークも前年の疲労が抜けず、秋から始動することになりました。 この2頭が休んでいる間に、大井競馬場から1年先輩の怪物がやってきました。その名はイナリワン。 大井で14戦9勝の戦績を残した後、いきなり天皇賞(春)と宝塚記念を制し、一流馬の仲間入りを果たしたのでした。この時の鞍上は武豊騎手。 秋になると武豊騎手はスーパークリークの背に戻っていきましたが、天皇賞(秋)で初めてこの3頭がぶつかることになりました。 結果は、復帰したスーパークリークがオグリキャップをハナ差制して優勝。イナリワンは6着に敗れたのでした。 ここから驚異だったのはオグリキャップ。中2週でマイルチャンピオンシップに出走し、優勝。 さらに、連闘でジャパンCに挑み、当時の世界レコードで走ったホーリックスのハナ差2着の大接戦を演じるのでした。この時、スーパークリークは4着,イナリワンは11着。 最後の3強対決となったのが有馬記念でした。先行したオグリキャップ,スーパークリークの2頭に対し、後方待機の徹したイナリワン。 直線で2頭が叩き合いを演じる中、その外から豪快に差しきったのがイナリワンで、レコード勝ちのおまけ付きでした。 その後、イナリワンは天皇賞(春),宝塚記念でそれぞれと対戦しますが、いずれも敗れて引退。 スーパークリークは大阪杯,天皇賞(春),京都大賞典と3連勝で秋のG1戦線に向かいましたが、繋靱帯炎を発症し引退。 オグリキャップは安田記念を制するものの、天皇賞(秋)6着,ジャパンC11着と惨敗。しかし、引退レースの有馬記念で奇跡の復活を果たし、中山競馬場の17万人のファンを酔わせたのでした。 ちなみに、この時の鞍上は武豊騎手。彼は、三強全ての馬に騎乗したのでした。
年月日 レース名 オグリキャップ スーパークリーク イナリワン
1988.12.25 有馬記念(G1) 1着 失格(3位入線) 未出走
1989.10.08 毎日王冠(G2) 1着 未出走 2着
1989.10.29 天皇賞・秋(G1) 2着 1着 6着
1989.11.26 ジャパンC(G1) 2着 4着 11着
1989.12.24 有馬記念(G1) 5着 2着 1着
1990.04.29 天皇賞・春(G1) 未出走 1着 2着
1990.06.10 宝塚記念(G1) 2着 未出走 4着
 この頃になると、海外から良い種牡馬がたくさん入ってきました。サンデーサイレンスが供用開始したのが1991年。 その前は、ノーザンテースト,トニービン,リアルシャダイ,ブライアンズタイムなどの種牡馬が活躍していました。 このうちトニービン産駒のウイニングチケット,同じグレイソヴリン系の父を持つビワハヤヒデ,そしてナスルーラの血を引くナリタタイシン。 この3頭が1993年のクラシックを争うことになりました。 最初に名乗りを上げたのがビワハヤヒデ。朝日杯3歳Sでは外国産馬のエルウェーウインに競り負けてしまいましたが、クラシックの有力候補として注目されるようになりました。 そして、最終週のラジオたんぱ杯3歳Sでナリタタイシンが、ホープフルSでウイニングチケットが優勝し、この時点で役者が揃ったのでした。 最初に対戦したのがウイニングチケットとナリタタイシン。1番人気に推されたウイニングチケットが人気に答える結果となりました。 次の皐月賞で3強揃い踏み。弥生賞と同じコースと言うことでウイニングチケットが1番人気に推されましたが、ダービーを目標としていた同馬は軽めの調教で4着敗退。 ビワハヤヒデが一時先頭に躍り出ましたが、ナリタタイシンの末脚が勝ったのでした。 日本ダービーは、ウイニングチケットの鞍上柴田政人騎手がどうしても勝ちたいレース。その想いが他の2頭を寄せ付けませんでした。柴田騎手は19回目の挑戦で悲願のダービー初制覇。 これで火が付いたのがビワハヤヒデの浜田調教師でした。残りの一冠を獲るためにビワハヤヒデを放牧に出さず、自厩舎でスパルタ調教。 その甲斐が実って、菊花賞を制覇。三強が三冠を分け合った年でした。 その後ウイニングチケットはジャパンCに挑戦し、3着と好走。有馬記念で再びビワハヤヒデと対戦することになりました。 1993年有馬記念は出走14頭中8頭がG1馬という、超豪華なメンバーで争われました。ナリタタイシンは休養に入っていましたが、ビワハヤヒデ,ウイニングチケットの他、 ジャパンCを勝ったレガシーワールド,2年前の二冠馬トウカイテイオー,天皇賞(春)馬ライスシャワー,牝馬二冠のベガ,同期の2歳チャンプ・エルウェーウイン, 前年の覇者メジロパーマー……。ウイニングチケットはジャパンCの疲労が抜けず11着惨敗。 ビワハヤヒデは逃げたレガシーワールドを捕まえ、G1・2勝目が見えてきたところで、外から差してきたのが前年の有馬記念で骨折し、11着に敗れたトウカイテイオーでした。 1年ぶりのレースでの大復活劇にビワハヤヒデはなすすべがありませんでした。 その後、ナリタタイシンは天皇賞(春)で好走するも、骨折,屈腱炎を発症。それでも1995年まで現役を続行しましたが、ライスシャワー悲劇の宝塚記念で最下位に敗れ、引退しました。 ウイニングチケットの見せ場はオールカマーだけ。高松宮杯(G2)も5着に敗れ、古馬では活躍することができませんでした。 ビワハヤヒデは天皇賞(春),宝塚記念を連勝。一方、半弟のナリタブライアンがこの年にクラシック三冠を達成し、順調に行けば暮れの有馬記念で兄弟対決が見られるはずでした。 しかし、ビワハヤヒデは天皇賞(秋)で屈腱炎を発症し、引退。兄弟対決が幻となってしまいました。もし実現していたらどちらが勝っていたでしょう。 もはやかなうことはありませんが、競馬ファン永遠の夢のレースです。
年月日 レース名 ビワハヤヒデ ウイニングチケット ナリタタイシン
1993.04.18 弥生賞(G2) 未出走 1着 2着
1993.04.18 皐月賞(G1) 2着 4着 1着
1993.05.30 日本ダービー(G1) 2着 1着 3着
1993.10.29 菊花賞(G1) 1着 3着 17着
1993.12.26 有馬記念(G1) 2着 11着 未出走
1994.04.24 天皇賞・春(G1) 1着 未出走 2着
1994.09.18 オールカマー(G3) 1着 2着 未出走
1994.10.30 天皇賞・秋(G1) 5着 8着 未出走