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競馬のトリビア ライバル物語(2)
 Windows95が発売されたのが1995年。Yahoo Japanがサービスを開始したのが1996年。そして、googleが生まれたのが1997年。そんなインターネット創生期に競馬NOWも誕生しました。 元々、大学の情報処理という授業でホームページを作成する宿題が出され、その時興味を持ち始めていた競馬のページを作ったのでした。 Webに公開したのが7月4日で、その2日後に行われた宝塚記念を勝ったのがマーベラスサンデー。 これがG1初制覇でしたが、ライバルのサクラローレルやマヤノトップガンは秋に向けて休養しており、マーベラスサンデーのための宝塚記念と言っても過言ではないレースでした。 この3頭の中でまず頭角を現したのがマヤノトップガン。菊花賞は牝馬のダンスパートナーが1番人気になるほどの低調なメンバーで優勝。 しかし、その次の有馬記念では前年の三冠馬ナリタブライアンを寄せ付けず、逃げ切り勝ち。1995年の年度代表馬に選ばれたのでした。 年が明けると、中山金杯を勝ったサクラローレルが頭角を現し、中山記念も制して天皇賞(春)に挑んできた。 一方、マヤノトップガンは阪神大賞典でナリタブライアンと再戦し、最後の直線で壮絶な叩き合いの末アタマ差負けてしまいましたが、それでも負けて強しの印象を残して天皇賞(春)に進んだのでした。 天皇賞(春)では、マヤノトップガンとナリタブライアンの三度目の対決に注目が集まり、サクラローレルは離れた3番人気でした。 最後の直線でマヤノトップガンを交わしたナリタブライアンが、古馬G1制覇目前のところで、外からサクラローレルが差してきたところがゴールでした。 その後、ナリタブライアンは1200mの高松宮杯(G1)4着をステップに宝塚記念を目指しましたが、屈腱炎を発症し、引退してしまいました。 マーベラスサンデーは4歳時に骨折で1年間の休養を余儀なくされ、復帰後エプソムC(G3),札幌記念(G3),朝日チャレンジC(G3),京都大賞典(G2)と重賞4連勝で天皇賞(秋)に向かいました。 一方、サクラローレルとマヤノトップガンはオールカマー(G2)で対戦し、ここでもサクラローレルが勝ちました。 天皇賞(春)では、初めて三強が顔を揃えました。 道中はマヤノトップガン,マーベラスサンデー,サクラローレルの順に進みましたが、いずれも最後の直線で旧4歳馬のバブルガムフェローを捉えることができず、サクラローレルとマーベラスサンデーの順番が替わっただけでした。 この3頭はいずれもジャパンCへは向かわず、有馬記念で再び争うことになりました。 ディフェンディングチャンピオンとして負けられないマヤノトップガン、前走の不利で境調教師の怒りを買ってしまい汚名返上をしたい横山典弘騎手とサクラローレル、そして何としてもG1を勝ちたいマーベラスサンデー。 それぞれの想いが交錯する中、有馬記念のスタートが切られました。マヤノトップガンは逃げるカネツクロスの後ろに付け、それをマークしたマーベラスサンデーとサクラローレル。 天皇賞(春)と全く同じ展開でレースが進みました。最後の直線でマヤノトップガンは失速してしまい、抜け出したマーベラスサンデーが先頭。 しかし、サクラローレルが外から脚を伸ばし、境調教師の定年退職に花を添えたのでした。 その次の年は、マヤノトップガンは阪神大賞典から、マーベラスサンデーは大阪杯から始動し、いずれも危なげない勝利で順調なスタートを切ることができました。 しかし、サクラローレルは境師から引き継いだ小島太調教師の判断で、ぶっつけで天皇賞(春)に挑むことになりました。しかし-14kgでの出走は、結果的には失敗でした。 天皇賞(春)はこれまでと違い、サクラローレル,マーベラスサンデー,マヤノトップガンの順にレースが進みました。 向こう正面で掛かり気味に上がっていくサクラローレルと、それをマークするマーベラスサンデー。しかし、マヤノトップガンは動きませんでした。 最後の直線で2頭が抜け出し、サクラローレルが勝ったかに思われた瞬間、ものすごい脚でマヤノトップガンが迫ってきました。上がり3ハロン34.2秒の脚で差し切り、1年前の雪辱を果たしたのでした。 その後、マヤノトップガンは屈腱炎を発症し、引退。サクラローレルは仏・凱旋門賞に向けて、前哨戦のフォア賞に参戦しましたが、屈腱不全断裂で最下位に敗れ、引退。 マーベラスサンデーは宝塚記念後に骨折してしまい、有馬記念に直行。しかし、旧4歳馬のシルクジャスティスの2着に敗れ、屈腱炎で引退しました。
年月日 レース名 マヤノトップガン サクラローレル マーベラスサンデー
1996.04.21 天皇賞・春(G1) 5着 1着 未出走
1996.09.15 オールカマー(G2) 4着 1着 未出走
1996.10.27 天皇賞・秋(G1) 2着 3着 4着
1996.12.22 有馬記念(G1) 7着 1着 2着
1997.04.27 天皇賞・春(G1) 1着 2着 3着
 これから挙げる3頭は一度しか対戦していないので、ライバルとは言えないのかもしれません。しかし、時代や制度の制約がなければおそらく何度も対戦していただろうと思いますので、敢えて取り上げてみました。 サイレンススズカは父母ともにアメリカからの輸入馬サイレンススズカとワキア。良血の彼はデビュー前から期待を集め、新馬戦もその期待に応える7馬身差の圧勝で、クラシック最有力候補とまで言われるようになりました。 ところが、弥生賞ではスタート前にゲートをくぐってしまい、大外からのスタートも出遅れ8着。皐月賞は出走停止になってしまいましたが、500万下,プリンシパルSを連勝し、日本ダービーに駒を進めました。 しかし、ダービーでは行きたがる馬と抑えたい上村騎手の息が合わず、サニーブライアンの二冠を決める逃げ切りを許してしまったのでした。 その後、河内騎手を迎えて天皇賞(秋),マイルチャンピオンシップに挑戦しましたが、6着,15着と惨敗。陣営は活路を見いだすため、武豊騎手を迎えて香港遠征を決断しました。 香港国際C(G2)はローテーションが厳しかったこともあって5着でしたが、ここで思いっきり逃げたことで、馬に良化の兆しが見えてきました。 日本に帰国し、年が明けて初戦のバレンタインSを圧勝すると、そのまま中山記念(G2),小倉大賞典(G3),金鯱賞(G2)と連勝。 特に、金鯱賞は逃げ馬のページでご紹介しましたように、平地重賞では大変珍しい「大差勝ち」でした。 満を持して迎えた宝塚記念(G1)では、さすがに圧勝というわけにはいきませんでしたが、ステイゴールドらの猛追を凌いで、G1初制覇を遂げたのでした。 1歳年下のエルコンドルパサーとグラスワンダーは、同じ外国産馬の同期ということで、もっと対戦があっても良い2頭でした。 しかし、グラスワンダーは4連勝で朝日杯3歳S(G1)を制した後骨折が判明。 グラスワンダーが休んでいる間に、エルコンドルパサーが5連勝でNHKマイルC(G1)を制し、この毎日王冠が初対戦になりました。 サイレンススズカとエルコンドルパサーとグラスワンダー。どの馬が現役最強馬なのか、誰もが興味を持っていた対戦が毎日王冠(G2)で実現しました。 当時は天皇賞に外国産馬が出走できなかったので、本番よりも前哨戦の方が盛り上がったのです。 このレースの映像も逃げ馬のページにありますが、逃げたサイレンススズカがそのまま押し切って、エルコンドルパサーが直線で良い脚を見せて2着。 グラスワンダーは長期休養明けということもあって5着に敗れました。 その後、内国産馬のサイレンススズカだけ天皇賞(秋)に進みましたが、競走中に左前脚手根骨粉砕骨折を発症し安楽死処分。そのまま帰らぬ身になってしまいました。 エルコンドルパサーはジャパンC(G1)に進み、エアグルーヴやスペシャルウィークらを抑えて優勝。翌年はフランスに遠征し、サンクルー大賞(G1)を勝利。 凱旋門賞(G1)は惜しくもモンジューの2着でしたが、欧州以外の馬が初めて凱旋門賞を勝つチャンスがあったということで、日本でも非常に注目されました。 エルコンドルパサーは凱旋門賞を最後に引退。一方、グラスワンダーは国内に専念し、宝塚記念(G1),有馬記念(G1)と2つのグランプリレースで、その年G1を3勝していたスペシャルウィークを撃破。 外国産馬はクラシックレースや天皇賞に出走できない時代でしたが、エルコンドルパサーやグラスワンダーはスペシャルウィークに一度も負けませんでした。 そういう意味では、もし外国産馬の出走制限がなければ、この3頭はもっと対戦していたかもしれません。しかし、1回しかなかったからこそ、あの毎日王冠が語り継がれているのも事実でした。
年月日 レース名 サイレンススズカ エルコンドルパサー グラスワンダー
1998.03.08 毎日王冠(G2) 1着 2着 5着
 エルコンドルパサーやグラスワンダーに一度も勝てなかったスペシャルウィークでしたが、内国産馬にもライバルがおり、クラシックレースでは3頭でしのぎを削りました。 もう2頭はセイウンスカイとキングヘイローです。この3頭は皐月賞の前哨戦である弥生賞からいきなり対戦することになりました。 セイウンスカイが逃げ、好位にキングヘイロー、スペシャルウィークは後方待機。最後の直線ではスペシャルウィークの切れ味が勝り、逃げたセイウンスカイが2着、キングヘイローは差を詰め切れず3着でした。 皐月賞は弥生賞と同じコース,距離ということで人気も弥生賞の着順と同じ順番だったのですが、ここではスペシャルウィークが脚を余し、セイウンスカイがまず一冠を制しました。 日本ダービーでは東京の長い直線でスペシャルウィークの末脚が炸裂し、キングヘイローは初めて掲示板を外す着外。 結局、キングヘイローは皐月賞でスペシャルウィークに先着しただけで、それ以外は2頭に勝つことはできなかったのですが、主戦の若い福永祐一騎手を応援するファンも多く、 その後専門外と思われた6ハロン電撃戦の高松宮記念(G1)で、悲願のG1制覇を成し遂げました。 一方、長距離戦では互角かと思われたスペシャルウィークとセイウンスカイですが、菊花賞はセイウンスカイが、天皇賞(春)はスペシャルウィークがそれぞれ優勝する結果となりました。 古馬になってから、セイウンスカイは残念ながらG1に手が届きませんでしたが、スペシャルウィークは天皇賞(秋),ジャパンCと勝ち、名馬の仲間入りを果たしたのでした。
年月日 レース名 スペシャルウィーク セイウンスカイ キングヘイロー
1998.03.08 弥生賞(G2) 1着 2着 3着
1998.04.19 皐月賞(G1) 3着 1着 2着
1998.06.07 日本ダービー(G1) 1着 4着 14着
1998.10.18 京都新聞杯(G2) 1着 未出走 2着
1998.11.08 菊花賞(G1) 2着 1着 5着
1998.12.27 有馬記念(G1) 未出走 4着 6着
1999.05.02 天皇賞・春(G1) 1着 3着 未出走
1999.07.11 宝塚記念(G1) 2着 未出走 8着
1999.10.31 天皇賞・秋(G1) 1着 5着 7着
 次のライバル対決は、騎手同士の争いでもありました。2000年全国リーディング21位の和田竜二騎手,59位の安田安彦騎手,74位の渡辺薫彦騎手。 それぞれがテイエムオペラオー,メイショウドトウ,ナリタトップロードというお手馬を従え、そこに1位の武豊騎手が良血馬アドマイヤベガやラスカルスズカに乗ってG1で対決する構図となりました。 クラシックを争ったのはテイエムオペラオーとナリタトップロードとアドマイヤベガ。 父サンデーサイレンス,母ベガの仔に武豊騎手が騎乗ということで、人気面ではアドマイヤベガが1番でしたが、この3頭は三冠を分け合いました。 特に、春の二冠を逃して涙を流し、乗り替わりの危機を乗り越えて菊花賞を勝った渡辺騎手の執念に感動したファンも多くいました。 アドマイヤベガは左前脚繋靭帯炎を発症してしまい、菊花賞を最後に引退。 替わって、武豊騎手はサイレンススズカの半弟ラスカルスズカ(父コマンダーインチーフ)に騎乗して、テイエムオペラオー,ナリタトップロードと戦いました。 阪神大賞典や天皇賞(春)では、ナリタトップロードには先着したものの、テイエムオペラオーには一度も勝てず、結局G1未勝利のまま右前浅屈腱炎を発症し長期休養、そして引退してしまいました。 一方、外国産馬のメイショウドトウは旧4歳時長らく900万下条件で低迷していましたが、秋に2連勝でオープン入りすると、翌年の中京記念(G3),金鯱賞(G2)と重賞を2つ勝ち、宝塚記念に挑んできました。 結果は2着でしたが、このレースでナリタトップロードに代わり、テイエムオペラオーのライバルとして名乗りを上げたのでした。 しかし、テイエムオペラオーにはどうしても勝てません。天皇賞(秋),ジャパンC,有馬記念,そして翌年の天皇賞(春)とすべて2着で、優勝はすべてテイエムオペラオーでした。 2000年のテイエムオペラオーは2000m以上の古馬G1を全制覇。前哨戦を含めて8戦8勝のパーフェクトで、文句なしに年度代表馬に選ばれました。 このうちナリタトップロードも6回対戦していますが、テイエムオペラオーに勝つことはありませんでした。 しかし、翌年の宝塚記念で遂にメイショウドトウが雪辱を果たします。早めに抜け出したメイショウドトウに対して、テイエムオペラオーは馬群に包まれる苦しい展開。 最後の直線で差を詰めるも1.1/4馬身及ばず、メイショウドトウのG1初制覇となりました。 秋になると、下の世代から新勢力が現れました。天皇賞(秋)では、アグネスデジタルの強烈な末脚に屈してテイエムオペラオーは2着。 ジャパンCではその年のダービー馬ジャングルポケットに差され、またしても2着でした。 そして、引退レースとなった有馬記念では菊花賞馬マンハッタンカフェに優勝を許し、同じく引退を表明していたメイショウドトウにも先着できずに5着に終わりました。 一方、ナリタトップロードは現役を続行し、京都記念,阪神大賞典,京都大賞典とG2を3勝しましたが、G1は天皇賞(秋)の2着が最高で、菊花賞以来の勝利は叶いませんでした。
年月日 レース名 テイエムオペラオー ナリタトップロード アドマイヤベガ ラスカルスズカ メイショウドトウ
1999.04.18 皐月賞(G1) 1着 3着 6着 未出走 未出走
1999.06.06 日本ダービー(G1) 3着 2着 1着 未出走 未出走
1999.11.07 京都新聞杯(G2) 未出走 2着 1着 未出走 未出走
1999.11.07 菊花賞(G1) 2着 1着 6着 3着 未出走
1999.12.26 有馬記念(G1) 3着 7着 引退 未出走 未出走
2000.02.20 京都記念(G2) 1着 2着 --- 未出走 未出走
2000.03.19 阪神大賞典(G2) 1着 3着 --- 2着 未出走
2000.04.30 天皇賞・春(G1) 1着 3着 --- 2着 未出走
2000.06.25 宝塚記念(G1) 1着 未出走 --- 5着 2着
2000.10.08 京都大賞典(G2) 1着 2着 --- 未出走 未出走
2000.10.29 天皇賞・秋(G1) 1着 5着 --- 未出走 2着
2000.11.26 ジャパンC(G1) 1着 未出走 --- 未出走 2着
2000.12.24 有馬記念(G1) 1着 9着 --- 未出走 2着
2001.04.29 天皇賞・春(G1) 1着 3着 --- 未出走 2着
2001.06.24 宝塚記念(G1) 2着 未出走 --- 未出走 1着
2001.10.07 京都大賞典(G2) 1着 中止 --- 未出走 未出走
2001.10.28 天皇賞・秋(G1) 2着 未出走 --- 未出走 3着
2001.11.25 ジャパンC(G1) 2着 3着 --- 未出走 5着
2001.12.23 有馬記念(G1) 5着 10着 --- 未出走 4着
 ウオッカは2戦目の黄菊賞(500万下)で2着に敗れたものの、阪神ジュベナイルフィリーズ(G1),エルフィンS(OP)と連勝し、クラシック最有力候補に名乗りを挙げました。 一方、ダイワスカーレットは果敢に挑戦したシンザン記念(G3)で2着に敗れましたが、新馬,中京2歳S(OP)と連勝で、こちらも桜花賞に向けて注目が集まっていました。 最初に対戦したのは前哨戦のチューリップ賞です。逃げるダイワスカーレットに対して、追いかけるウオッカ。この構図はずっと変わりませんでした。 初戦の結果はウオッカの差し切り勝ち。しかし、同じコース,距離で行われた桜花賞では少し控えたダイワスカーレットがウオッカを寄せ付けず、最初のG1対決はダイワスカーレットが制しました。 次の対戦はオークスと思われましたが、ダイワスカーレットは感冒で回避。また、ウオッカは日本ダービーに挑戦し、見事に勝利。牝馬のダービー制覇は何と64年ぶりの快挙でした。 ウオッカはその勢いで宝塚記念にチャレンジ。しかし、古馬の壁は厚く、8着に敗れました。その後、陣営からは凱旋門賞挑戦が発表されましたが、右後肢蹄球炎を発症し、残念ながらフランス遠征を断念。 ぶっつけで秋華賞に向かうことになりましたが、前哨戦のローズS(G2)を勝っていたダイワスカーレットに優勝をさらわれてしまいました。 その次はエリザベス女王杯(G1)で対戦予定でしたが、直前になってウオッカに右肩跛行が認められレースを回避。ダイワスカーレットがG1・3勝目を収めたのでした。 怪我が軽傷だったウオッカはジャパンCに出走しましたが、4着敗退。有馬記念で再び対戦しましたが、2着と善戦したダイワスカーレットに対して、ウオッカは良いところなく11着に敗れました。 ダイワスカーレットはダート適性もありそうだということで、フェブラリーS(G1)からドバイワールドC(G1)への遠征が計画されましたが、調教中に目を痛めてしまってこの計画を断念。 大阪杯(G2)を勝ちましたが、前脚管骨骨瘤を発症し、天皇賞(秋)まで休養することになりました。 一方のウオッカはドバイへ遠征し、ドバイデューティフリー(G1)で4着。帰国後のヴィクトリアマイル(G1)2着の後、安田記念(G1)を見事に制しました。 そして迎えた天皇賞(秋)。ここまでの対戦成績が1勝3敗で雪辱を果たしたいウオッカは、前哨戦の毎日王冠(G2)で2着とし、万全な体制で出走してきました。 一方のダイワスカーレットはぶっつけで臨むことになりましたが、それほど悪くない感じ。レースはこれまでと同じようにダイワスカーレットが逃げ、ウオッカが追いかける展開となりました。 前半の1000mを58.7秒で逃げるハイペースでもダイワスカーレットの脚色は衰えず、4コーナーで外に持ち出したウオッカも良い感じ。 この年のダービー馬ディープスカイや重賞常連のカンパニーも差してきましたが、最後は内外離れてダイワスカーレットとウオッカが同時にゴール板を駆け抜けました。 15分もの長い写真判定の結果、2cm差でウオッカの勝利。勝ちタイムは1.57.2のレコードで、最後のライバル対決は、記憶にも記録にも残る歴史的なレースとなりました。 その後、ジャパンCへ向かったウオッカは3着。一方のダイワスカーレットは見事37年ぶり牝馬の有馬記念制覇を達成しました。 しかし、前年と同じようにフェブラリーSとドバイワールドCを目指したダイワスカーレットは左前脚浅屈腱炎を発症し、引退に追い込まれてしまったことでライバル対決は終焉を迎えました。 その後、ウオッカは現役を続行し、ドバイデューティフリー(G1)7着の後、ヴィクトリアマイルを7馬身差の圧勝。そして、再びディープスカイと対戦した安田記念を連覇し、現在に至ります。 2009年はウオッカとディープスカイの対決が何度も見られそうですが、やはりライバル同士の争いは良いものです。
年月日 レース名 ウオッカ ダイワスカーレット
2007.03.03 チューリップ賞(G3) 1着 2着
2007.04.08 桜花賞(G1) 2着 1着
2007.10.14 秋華賞(G1) 3着 1着
2007.12.23 有馬記念(G1) 11着 2着
2008.11.02 天皇賞・秋(G1) 1着 2着